神戸地方裁判所 昭和32年(レ)157号 判決 1960年8月27日
控訴人 上月じゆん
被控訴人 竹中咲
主文
原判決を取消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は、第一、二審及び上告審費用とも被控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は「本件控訴を棄却する。訴訟費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。当事者双方の主張、証拠の提出、援用、認否は、次に付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
控訴代理人は、抗弁として、
「被控訴人は、訴外森下瑞竜子こと森下高章(以下単に訴外森下という)の控訴人に対する金五万円の債務を第三者として弁済するに当り、その弁済は右訴外人の意思に反する無効のものであることを知りつつ、あえてこれをなしたのであるから、いまさら右弁済の無効を主張し、不当利得としてその給付金の返還を請求することは、民法第七百五条の類推または禁反言の法理からして、なし得ないものである。
仮に右主張の理由がないとしても、控訴人は、被控訴人のなした弁済を受領した際、その弁済の無効であることを知らないで、訴外森下が差入れていた右債務の借用証書を被控訴人に交付したのであるが、これは民法第七百七条第一項の債務者でない者が錯誤により債務の弁済をした場合において債権者が善意で証書を毀滅した場合にあたるから、同条項により、被控訴人は控訴人に対し右弁済金の返還を請求することができない。
なお、被控訴人が右弁済につき利害関係を有するとの原審における主張は撤回する。」
と述べ、証拠として、証人森下高章、同中川富蔵の各証言、及び控訴本人(第一、二回)、被控訴本人の各尋問の結果を援用し、甲第三号証の成立を認めた。
被控訴代理人は、
「控訴人の抗弁事実はこれを否認する。被控訴人が第三者弁済をした事情は次のとおりである。
控訴人は寡婦で、同居していたその娘夫婦や孫とそりが合わず虐待に堪え切れぬといつて昭和二十九年一月頃家出し、所轄庁に亡夫の遺産の分配を申し立てたが、相手方である娘夫婦が頑強に争つたため相続財産の分配の見透はつかず、所持金も少くなつたので、同年六月頃には極度に悲観し、しばしば自殺を口にしていた。そして、控訴人はその頃被控訴人に対し、訴外森下が同年六月末に金五万円を返済してくれぬと、寄寓先である中川富蔵への支払ができないので、中川方を出なければならず、そうなれば身の振方がつかないから縊死するの外はないというので、被控訴人としては、極端な事態になつては大変だと思い、当時後日の求償の能、不能のことまで考える余裕はなく、全く衝動感情に駆られて立替払をしたものである。」
と述べ、証拠として、甲第三号証を提出し、証人森下高章、同上月文の各証言、及び被控訴本人尋問の結果を援用した。
理由
控訴人が、昭和二十九年三月十日訴外森下に対し、弁済期日を同年四月三十日との約束で金五万円を貸与し、同年七月一日被控訴人からその弁済として同金額の給付を受けたことは、当事者間に争がない。
被控訴代理人は、右弁済は第三者の弁済であると主張し、控訴代理人は、被控訴人は訴外森下の債務の支払を保証したのであるから、保証人としての弁済であると主張するので、考えてみよう。
成立に争のない甲第一号証、同第三号証、原審における証人森下高章の証言、及び原審における被控訴本人尋問の結果を総合すれば、控訴人、訴外森下間に金五万円の貸借がなされるに至つた経緯は、訴外森下が控訴人宅で控訴人に対し金員借用方の申込をした際、被控訴人は、たまたまその場に居合せたので、被控訴人に対し再三訴外森下のために金員の融通方を口添してやり、その結果、被控訴人は、訴外森下を主債務者、その妻きよを連帯保証人として、訴外森下に対し金五万円を交付したものであることが認められ、原、当審証人中川富蔵の証言、原審及び当審(第一、二回)における控訴本人の供述中右認定に反する部分は、前記各証拠並びに弁論の全趣旨と対比して信用することができず、他に右認定を妨げる証拠はない。
右の事実によると、被控訴人は、控訴人、訴外森下間の貸借のあつせんに尽力したが、それは単なる貸借の仲介に止まり、その返済を保証したものとは認め難く、結局右弁済は第三者による弁済であるといわねばならない。
次に、被控訴代理人は右弁済が債務者の意思に反する無効のものであると主張するので、この点を考えてみよう。
原審証人森下高章の供述により成立を認める甲第二号証、原、当審における証人森下高章の証言、及び原、当審における被控訴本人の供述を総合すれば、被控訴人は、訴外森下に懇請されて、控訴人に対し弁済期の延期方を交渉した結果、二度弁済期が延期されて昭和二十九年六月末まで猶予されたが、訴外森下の金策のあてはなく到底右期限までに弁済の見込がなかつたので、被控訴人は同年六月三十日森下に対し前記債務を同人に代つて支払う旨申し入れたところ、訴外森下は、被控訴人に立替払をして貰うと控訴人よりも一層取立がきびしくなり、また、被控訴人とは同じ真言宗の信者であるから、立替払により債権債務の関係ができて不仲の原因となるばかりか、信者間の賃借を禁ずる師の戒を破ることとなり、破門されるおそれがあると考え、即座に被控訴人の立替払の申入を拒否したのであるが、被控訴人は、同年七月一日、訴外森下に代つて控訴人に金五万円の弁済をしたことが認められ、他に右認定を妨げる証拠はない。
そうすると、被控訴人のした右弁済は明らかに債務者の意思に反し、無効のものといわねばならない。
控訴代理人は、右弁済が無効であるとしても、被控訴人は債務者である訴外森下の意思に反すること、したがつてその無効であることを知つて弁済をしたものであるから、民法第七百五条の類推または禁反言の法理によりその返還を請求することができないと主張するので、判断しよう。
民法第七百五条は単に債務の存在しないことを知りながら債務の弁済として給付をした場合のみならず、その弁済が債務者の意思に反し無効であることを知つて第三者があえて弁済をした場合を含むと解するのが相当であり、かつ、債務者の意思に反することを知りながら弁済した第三者は反証のない限り弁済の無効であることを知つていたものと推定すべきである。
ところで被控訴代理人は、被控訴人は当時あとからの求償の能、不能のことまで考える余裕なく、全く衝動感情に駆られて立替払をした旨主張し、その事情を縷縷述べているが、原、当審における被控訴本人の供述中その主張事実に副う部分は、原、当審証人中川富蔵の証言、原審及び当審(第一、二回)における控訴本人の供述と対比して信用できず、他にこれを認めるに足る証拠はなく、かえつてこれらの証拠によれば、被控訴人は、前記認定の貸借並びにその弁済期を二度まで延期してもらつた経緯による控訴人に対する義理合いから、自由な意思決定により訴外森下に代つて金五万円の弁済をしたものであることが認められる。
そうすると、被控訴人が右弁済当時債務者である訴外森下の意思に反することを知つていたことは前認定のとおりであるから、右弁済が無効であることを知つていたものと推定され、したがつて、被控訴人は、民法第七百五条により、本件債務の弁済として控訴人に給付した金五万円の返還を請求することができないものといわねばならない。
してみると、被控訴人が右返還請求権を有することを前提とする本訴請求は、その余の判断をするまでもなく失当であること明らかであるから、棄却することとし、これに反する被控訴人の請求を認容した原判決を民事訴訟法第三百八十六条により取消し、訴訟費用の負担につき同法第九十六条、第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 森本正 菅浩行 志水義文)